2016年12月21日水曜日

残念な大人と頼もしい子供

15日(木)と16日(金)に山口県長門市で行なわれた日露首脳会談との関連で、こんな動画を観ました。



ソ連軍による占領下の北方領土(1945年~1948年頃)では、勿論、自分の所に来たソ連軍軍人の人物次第で、日本人一人一人の運命は大きく左右されたでしょうが、中には、仲良く共存し、楽しい思い出になる程だった人も居た、と云う事です。
その切っ掛けについて、上の動画は、02:20~02:32で、「日本人とソビエトの人達、最初の頃は、恐怖心と不安感がお互いを遠ざけていましたが、やがて子供達がその壁を打ち砕いていった、と云います。」と説明しています。
子供達主導で、大人がその後に付いていく形で、「恐怖心と不安感」を克服して問題を解決し、状況を好転させた、と言うのです。

これを聞いて、私が思い出すのは、韓国、1960年02月28日の「2.28大邱学生義挙」の話です。
韓国では、李承晩(り・しょうばん、イ・スンマン)初代大統領の12年間の執政期間中(1948年~1960年)、朝鮮戦争とその後の朝鮮半島分断を背景に、韓国人が韓国人を殺したり(具体例は下記)、露骨な選挙不正を行なったりし(具体例は下記)、生き残った人はそれを見て見ぬ振りをする事勿れ主義の風潮が蔓延して、李承晩政権を延命させていたようです。

李承晩在任中の韓国人による韓国人大量虐殺事件の一例
李承晩在任中の不正選挙事件その他の政権側による政治事件の一例
  • 1952年07月04日 釜山政治波動 ※大統領選挙を国民による直接選挙に改正する改憲案を、反対派議員を弾圧した上で、賛成163、反対0、棄権3で可決。後8月5日の第2代大統領選挙で李承晩再選。
  • 1954年11月27日~29日 四捨五入改憲 ※現職大統領(李承晩)に限り三選禁止条項を撤廃する改憲案を、改憲に必要な203票の3分の2、“135.3333…”を四捨五入して135票とし、賛成135、反対60、棄権6、無効1、欠席1で可決。尚、この改憲に向けて与党議席数を確保するべく事前に行なわれた5月20日の第3代国会議員総選挙では、警察組織を利用した選挙干渉や不正選挙が公然と行なわれた。また、可決された新しい憲法の下で行なわれた第3代大統領選挙(1956年5月15日)では、対立候補が急死、李承晩三選。
  • 1956年09月28日 張勉副大統領暗殺未遂事件 ※1956年5月15日の第3代大統領選挙で李承晩が三選する一方、副大統領には野党民主党の張勉が当選していた。
  • 1958年01月11日~1959年07月31日 進歩党事件 ※急成長した新政党を解散させ、党首らを北朝鮮のスパイとして処刑。

そして、このような状況に異議を唱え、李承晩政権の打倒に至る四月革命(韓国)の口火を切ったのは、高校生達が起こしたデモだった、と云うのが、「2.28大邱学生義挙」のエピソードです。





身近な所を見回しても、そう云う事を示す事例が多く有ります。
つまり、多くの場合、子供よりも大人の方が臆病だ、と云う事です。
私自身は、子供の頃の方が、大人になった今よりも、ずっと臆病で小心で不安がりだった、と思うのですが、…考えさせられます。

参考ページ

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